2011年3月23日水曜日

極私的2000年代考(仮)……“騒音”の愉悦

2005年の『ハイパーマジック・マウンテン』以来、4年ぶりとなるニュー・アルバム『アースリー・ディライツ』をリリースしたライトニング・ボルト。4年のブランク――といってもその間、彼らは精力的にツアーを行いライヴをこなし、オール・トゥモローズ・パーティーズなどフェスに出演したり、またドラマーのブライアン・チッペンデールは『ヴォルタ』でビョークやアントニーと共演したり、ボアダムスの「Boadrum」に参加したりと、その動向に触れる機会は絶えなかったのだが……いやはや、あらためて4年ぶりにまともに聴くそれは、やはり圧倒的で、すっかり打ちのめされてしまった。

じつは今回のニュー・アルバムの収録曲のほとんどは、2007年の時点でレコーディングが終了済みで、その後、一年半のオフを挟んで昨年末に再び何曲か新たにレコーディングしてマスタリングにいたったという、少々イレギュラーな経緯をもつ。なので、彼らの中では純然たる新作という感覚が希薄で、事実、大半の曲が過去の曲ということもあり、戸惑いや違和感みたいなものが今作に対してはあるとチッペンデールは語っていた――が、いやいやなんの。

ミニマルなジャムや不定形のインプロをベースに、ドラムとベース・ギターの飽くなき応酬から一気呵成にテンションを振り切り、築き上られるエクストリームでサイケデリックなウォール・オブ・ノイズは、そんな裏事情などお構いなしに相変わらず強烈無比で痛快至極。オフの間もレコーディングした曲を何度も聴き直し、スタジオで試行錯誤を繰り返したという今作は、「今までで一番ライヴに近いものができたかなと思っている」と語っていた前作に対し、曲順の構成やアルバム・トータルとしての演出において、より練り抜かれた作品という印象を受ける。これまでのアルバムが、いわば混沌の渦の中に没頭することで生まれた作品だとするなら、今作はその混沌の渦の全体像や相貌を俯瞰で捉えた作品、といえる部分があるかもしれない。

中でも白眉は、本編ラストの“トランスミッショナリー”。インプロで出来上がった12分超の長尺の構成で、ジリジリと互いの間合いを詰めていくようなノイズとビートが、どこかドローン的な持続感をたたえながら空間をひたすら埋め尽くしていく。ある種、王道のスタイルでシンプルな展開ながら、「単なる歌、曲という枠組みを超えたトラックで、すべてを行き過ぎなくらいに押しやって、行き過ぎなくらいに遠くに行ってしまっている」とチッペンデールも自負するように、アンサンブルの拡張性とヘヴィネス――“騒音のカタルシス”を過剰に突き詰めた、彼らならではの醍醐味が凝縮されたナンバーだといえるだろう。

ちなみに、今回のアルバムには、制作時期の背景にあった2005年から08年のアメリカや世界情勢――つまり第二期ブッシュ政権下のシリアスなムードが反映されている、とチッペンデールは語っていたが、それとは別に、曲作りの上で特別なインスピレーションを与えてくれたものがあったという。それは、2人がオフの間によく聴いていたインドやバリやスマトラやカンボジアの民族音楽。とくに2人が一緒にハマったのが、「Sublime Frequencies」(サン・シティ・ガールズのアラン・ビショップが創設者で、東南アジアや中東諸国などさまざまな辺境地域の現地音楽やラジオ音楽をコンパイルした作品をリリースするレーベル)関連の作品で、4曲目の“ザ・サブライム・フリーク”はタイトルもそこから取られている。

チッペンデールいわく「ヴォーカルとギターのメロディ・ラインがお互いを追い回すように展開していくところがすごく好きで、そこらへんは“ザ・サブライム・フリーク”からも聴き取れると思う。あと、シンプルなフレーズを何度も繰り返すこと、そこから一種の催眠状態というか、ハイの状態になることとか、そういうことを思い出させてくれたというのもあるんだ。あるリズムに達したら、それを繰り返し叩いて、変に気をきかせたり、頭を使ってかっこいいことをしようとせずに、そこで何が生まれてくるかを待つ、みたいなね。シンプルで美しいサウンドを追求して、そこに達したら、そこに留まるということだよね」。

もっとも、彼らのライヴを体験したことがある人ならば尚更わかるように、そもそも彼らの音楽には、彼の地の現地音楽がそうであるように一種の“祭儀のための音楽”的なムードを色濃く感じられる。それは、たとえばガムランやケチャにも通じる集団的熱狂やプリミティヴな覚醒感を誘発するサウンド的な特徴しかり。あるいはそして、地元のアートスペース「フォート・サンダー」を棲家に、そこに集うさまざまなアーティストとの交流の中から“自分達のコミュニティを称える”ようにして音楽が育まれてきたバックグラウンドしかり。そうした自身の音楽の“祭儀性”や“儀式性”についてはこう語る。「ライトニング・ボルトの音楽は、少なくとも俺にとっては、瞑想というか、癒しだったり、すごく肉体的なものだったりと……俺はなるべく毎日ドラムを叩くようにしてるんだけど、1日、2日、ドラムを叩かないで過ごすと、すっきりしないというか、体の調子も良くないんだよね。つまり、俺達は自分達が健康で幸せでいるためには、どうしてもライヴが必要なんだという。実際、俺にとってはドラムを叩くのは一種の儀式みたいなものだし、叩くときは何らかのクライマックスに向かって盛り上げていくようにしてるんだ。もちろん、ああいう民族音楽、宗教音楽みたいに何百年、何千年と受け継がれてきたものとは全く異なる性質を持った、もっとモダンなものだけど、それでも俺達が音楽を鳴らさずにいられない理由は、昔からの音楽がこうして今も演奏されて聴かれている理由と、どこか通じるものがあるんじゃないかな」


後にブラック・ダイスを結成するヒシャム・バルーチャ(現ソフト・サークル)を含む3人組として1994年にスタートし、地元ロードアイランドのプロヴィデンスを拠点に活動。今年で15年目とキャリアは意外と長く、1999年に再発されたファーストをへて2001年のセカンド『Ride The Skies』にいたる2000年代の幕開けと前後して頭角を現し始め、ニューヨーク~ブルックリン(ブラック・ダイス、サイティングスetc)や西海岸(ディアフーフ、ヘラetc)のアンダーグラウンドと同時代性を共有しながら、その圧倒的なサウンドとライヴ・パフォーマンスで今日まで比類なき存在を示し続けてきた。当初は「ポスト・ノーウェイヴ」なんて文脈で紹介されたりすることもあったが、楽器編成もサウンドもある意味極めてシンプルなのにどうにもカテゴライズ不可能という、いわゆるシーンやジャンルというものに属することのない特異な個性派であるライトニング・ボルト。しかし、こうしてあらためて久しぶりに彼らの作品に触れてみると、いくつか気づくことがある。

ひとつは、今更ながらボアダムスとの関係性。その音楽的な近似性は早い時点から指摘されてきたことだし、また実際に彼らがバンド始めるに際してボアダムスやルインズやメルトバナナなど日本のノイズ・バンドからの影響があったことは有名な話だが、たとえば先の「Boadrum」の開催に象徴されるように、昨今ブルックリンを中心に広義のボアダムス・フォロワー(ギャング・ギャング・ダンスやアニマル・コレクティヴまでも含む)的な志向性が顕在化を見せるさなかにあって、彼らの存在は新たな示唆を含んでいるようで今あらためて興味深かったりする(新作と関連して加えれば、民族音楽的な音階やアフロ・ビートの導入もここ数年のブルックリンの流行だろう)。

そしてもうひとつは、いわゆるニューゲイザー関連のローファイ・ブームとの関係性。中でも俗に「Shit-Gazer」や「No-Fi」と呼ばれたりする荒っぽいガレージ/ノイズ・ロック(ノー・エイジやイート・スカルからAFCGTやtttttttttttttttttttttまで含む)に示す親和性と先駆性には、今回の新作を聴いて再確認させられる部分も多い。彼らの場合、いわゆる「バンド」的な形態よりもっとフリーフォームなサウンドだが、両者には共通してノイズやアンプリファイされた音へのフェティシズムのようなものが強烈に感じられる。あるいは「フォート・サンダー」とノー・エイジの「スメル」の例を持ち出せば、両者の音の背景にあるコミュニティや思想的な部分も含めて別の共通項を指摘することもできるかもしれない。ちなみに、彼らとは「Load」のレーベル・メイトだった元ピンク&ブラウンのジョン・ドワイアが、その後さまざまなバンドを渡り歩き、現在はジー・オー・シーズというバンドを率いて昨今のローファイ・ブームの顔役となりつつある――そんなところにも両者の関係性を見出すことはできそうだ。

チッペンデールは、前述の『ヴォルタ』に続いて昨年リリースされたシングル“Nattura”(※アイスランドの自然保護のためのチャリティー企画)で再びビョークと共演し、さらに同曲ではトム・ヨークやマシュー・ハーバート、マーク・ベルともコラボを果たす。また「Boadrum」で同席したアンドリューWKプロデュースのリー・ペリーの新作に参加する一方、近年はブラック・パス名義のソロ活動も活発化させ、アルバムのリリースや「No Fun Festival」をはじめフェスに出演するなど、その周辺事情はにわかに騒がしい。そして――東のライトニング・ボルトといえば、相対するのはやはり、西のヘラ。というわけで、唐突だがこちらも屈指の鉄腕ドラマー、ザック・ヒルの行動が慌しすぎて目に余る。


ギターのスペンサー・セイムとドラムのザック・ヒルによって、2002年にサクラメントで結成されたヘラ。その楽器編成やサウンド・スタイルからライトニング・ボルトと比較されることが多く、キャリアは異なるがUSインディの東西を代表する“騒音のアルケミスト”として、無類の個性を誇る存在なのはご存知の通りである。マーズ・ヴォルタやシステム・オブ・ア・ダウンのツアーサポートをへて、ヴォーカル・パートを含む5人組の「バンド」編成で制作された07年リリースの4th『There’s No 666 in Outer Space』以降、ヘラとしての活動はブランクの状態が続いているが、一方各自の課外活動はめまぐるしい様相を呈している。昨年、新たなソロ・プロジェクト=スバッハ(sBACH)を始動したスペンサーに対し、ザック――これが質・量ともにハンパないことに。

ソロ名義の活動に加え、多種多様なプロジェクトやユニット、客演を矢継ぎ早/同時多発的にこなす極度のワーカホリックで知られるザック。その交遊録は年々ヴォリュームを増すばかりであり、そこにはじつに多彩な顔ぶれが並ぶ(デフトーンズ、ピンバック、ディアフーフ、ジョアンナ・ニューサム、キッド606、ジョーン・オブ・アーク、ネルス・クライン、ミック・バーetc)。とりわけヘラのブランク以降では、デフトーンズのチノやプライマスのレスからノー・エイジや!!!/LCDサウンドシステムのタイラーと共演した昨年のソロ『アストロロジカル・ストレイツ』、マーニー・スターンのサポート辺りが有名だが、その勢いは今年に入ってさらに加速した印象を受ける。プレフューズ73のスコット・ヘレンとのダイアモンド・ウォッチ・リスツを皮切りに、そのスコットにバトルスのタイヨンダイやトータスのジョン・マッケンタイアも参加したRISIL、オマー・ロドリゲスのリーダー・バンドでの客演、テラ・メロスのニック・ラインハルトとのバイゴーンズ、最新ではヘックスラヴのザック・ニールセン(去年の「Boadrum」にも参加)とのChll Pllと、どれも興味深い。エディット/エクスペリメンタル、プログレ、マス・ロック~ハードコア、アンビエント/エレクトロ……と縦横無尽にジャンルを越境し、自身の音楽履歴を拡張・更新していく節操のなさと行動力は、ザックならではというべきか。

中でも、今後の動向として楽しみなのが、サンディエゴの宅録青年ネイサン・ウィリアムスによるローファイ・パンク、ウェーヴスへの参加のニュース。ライトニング・ボルト同様、その界隈とヘラは音楽嗜好的にも親和性が高い。その相性のよさは、ソロでの共演に先駆けて実現したノー・エイジとのセッションEP『Flannel Graduate』で証明済みだが、あの独特のポエジーを湛えたサイケデリック・ノイズ&いなたい「うた」とザックの千手観音ドラムがどのような融合を見せるのか、期待が膨らむ。客演に留まるのか、マーニー・スターンの例のように本格的なコラボに発展するのかはまだ不明だが、いずれにせよ、USインディに新たなチャンネルを繋ぐ象徴的なトピックとなるのは間違いないだろう。
 

チッペンデールやザック・ヒルまでの知名度はまだないものの、注目に値するドラマーがいる。最後に紹介するのは、そのドラマー、イアン・アントニオを擁するニューヨークの4人組、ジーズ(Zs)。過去に元ダーティ・プロジェクターズ/現エクストラ・ライフのチャーリー・ルーカーも在籍した屈指の異端派で、キーボードやサックスを含む編成でプログレ~アヴァン・ジャズ~マス・ロックを換骨奪胎しながら横断/再構築するサウンドは、“クリムゾンmeetsノーウェイヴ”という評判も頷ける奇怪なフォルムを披露する。そしてイアンは、今月末にエレクトラグライドで来日が控えるバトルスのタイヨンダイのソロ『セントラル・マーケット』にも全曲参加した才人。チッペンデールともザックとも、もちろんバトルスのジョンとも異なるそのアグレッシヴかつ微分的なドラミングは、2007年のデビュー・アルバム『Arms』、そしてギャング・ギャング・ダンスやグローイングも所属するソーシャル・レジストリーから先日リリースされた組曲構成のニューEP『Music Of The Modern White』で聴くことができる(ちなみにサックスのサム・ヒムラーは、12歳~14歳の黒人の女の子5人で結成された“リトルESG”ことフライ・ガールズを手掛ける)彼らが奏でる“騒音のオーケストラ”もまた、げに美しい。


(2009/12)

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