2011年2月2日水曜日

極私的2000年代考(仮)……2007年の定点観測@ NY

ヤー・ヤー・ヤーズとライアーズ。ともに2000年代初頭のニューヨークに登場し、その後、かたやヴォーカルがロスに移住、かたや活動の拠点をベルリンに移転と、現在は互いにニューヨークとは距離を置く両者は、しかしながら「2000年代のニューヨーク」を観測する上でのひとつの「定点」として、自分にとっては常に関心の対象にあるバンドだ。キャリアも評価も実績も、もはやニューヨークという一都市のローカリズムを超えた存在である両者だが、同時に「ニューヨークの2000世代」の先頭集団でもある彼らは、その「行方」や「可能性」を先取し報告する第一のサンプルとして、「2000年代のニューヨーク」を考察する上で重要な存在であることには変わりない。

ヤー・ヤー・ヤーズが、去年のセカンド『ショウ・ユア・ボーンズ』以来となる(iTUNES限定EP、流出したカレン・Oのソロ・テープなんてのもあったが)ニューEP『Is Is』をリリースした。といっても、正確には新音源ではない。内容は、DVD『Tell Me What~』収録のライヴでも披露されていた“Down Boy”“10×10”等を含む2004年作曲のマテリアル。

04年といえば、バンドにとってファースト『フィーヴァー・トゥ・テル』とセカンドの間の時期にあたる。つまり今度のEPは、「もうガレージ・サウンドは突き詰め尽くしたっていう感じはするのね。乳が出なくなるまで絞り尽くしたっていう(笑)(カレン)」と感じ、翌年からロスに渡りアコースティック・ギターで作曲とセッションを始める、その直前のバンドの姿を捉えた作品といえるだろう。

事実、本作のサウンドはファーストやデビューEPの頃を彷彿させるもので、リード曲の“Rockers To Swallow”や“Kiss Kiee”をはじめ、カレンのビザールなヴォーカルとニックのエレクトリック・ギターが荒れ狂う真骨頂のガレージ・パンクを聴くことができる。

転調とヴァースのカットインを応酬し、ギター・ロックの定型的なソングライティングを容赦なく突き崩していくアヴァンギャルドな展開は、まさにYYYSならでは。“最後の乳の一滴”の、なんと濃厚なことか。『スパイダーマン3』のサントラに提供された“Sealings”は、モダン・ロック風のアレンジが食えない曲だったが、このEPがひとつの原点回帰という形で次の方向性の青写真となれば、来るべきニュー・アルバムは面白いことになるかもしれない。

一方、4作目にして満を持してのセルフ・タイトルとなるライアーズのニュー・アルバム『Liars』も、ある意味で自分たちの「原点」に立ち返った作品と言えるのではないだろうか。

セカンド『魔女狩りの物語』のリリース時に、「『バンド』はドラムとベースとギターとヴォーカルでできているっていう概念を壊したかった」と語っていたアンガス。対して『Liars』では、ポスト・パンクなクランプス?風のリード曲“Plaster Casts Of Everything”を筆頭に、いくつかの曲で「バンドな」サウンドを聴くことができる。『魔女狩り~』以降、カンやノイバウテン、ディス・ヒートといったクラウト・ロック~インダストリアル、アヴァンギャルドに傾斜していったサウンドは、初期ソニック・ユース(に特徴的なガムランのようなギターの不協和音を聴くことができる)やPILといった彼ら本来の「ルーツ」へ回帰するように、奇妙な言い方だが「ロック」「ポップ」化を見せている(ダビーなジザメリ?みたいな“Freak Out”もあれば、スーサイドやイーノもいるわけだが)。

あるいは、最近もスコットランドの詩人ジェリー・ミッチェルとのスプリットEPでツェッペリン“How Many More Times”をカヴァーしていたが、今作に寄せたコメントの中で「このアルバムを作るまで自分がソングライターだと自覚したことはなかった」とアンガスも話していたように、バンドにとって『Liars』は、これまでのディスコグラフィーの中で最もソングオリエンテッドな作品と言えるのかもしれない。「喪失、あるいは変化への対処がテーマだった(アンガス)」という前作『果てしなきドラム』をへて、新天地ベルリンで「バンド」として「回復/再覚醒」したライアーズのネクスト・レヴェルが『Liars』には記録されている。
 

その両者も出演していたDVD『キル・ユア・アイドルズ』。あの作品で示されていたのは、一言で言えば「1990年代のニューヨークはスカ」という、ミもフタもない歴史認識だった。

「New York NO Wave & The New Generation」という副題が伝えるように、ノー・ウェイヴ~ソニック・ユースやスワンズが登場した「82年」と、ヤー・ヤー・ヤーズやライアーズが登場した「02年」を、音楽的/歴史的に接続しようとする(と同時に切断もしようとしているところに監督の真意はあるわけだが)試みから導き出されるニューヨークのアンダーグラウンド・シーンの系譜に、1990年代は一切含まれていない。個人的にも「1990年代のニューヨーク」と聞いて即座に思い浮かぶバンドは限られている(ジョンスペ、ブロンド・レッドヘッド、正確には違うがペイヴメントぐらいか)。そういえばソニック・ユースのサーストン・ムーアも「特に1990年代は『あの連中はいったい何をやってるんだ?』って顔されたアルバムが何枚かあったけど(苦笑)」と話していたぐらいだから、振り返れば確かに1990年代は、前後の10年間に比べれば「スカ」だったんだろう。

1970年代にはパンクがあり、1980年代にはノー・ウェイヴに端を発するアンダーグラウンドの爛熟があり、2000年代初頭にはロックンロールの台頭/復権があった。対して、当時のオルタナティヴやグランジとも中心から距離が置かれていた1990年代のニューヨークは、こと「ロック」に関して言えば無風の時代だったのかもしれない。

しかし、反面、いかなるムーヴメントにも晒されることのなかった1990年代のニューヨークは、アメリカ他都市のアンダーグラウンドが「時代の要請」によって次々と掘り起こされ荒らされていったのとは対照的に、その独自の文化や音楽的発展を守ることができた、とも言える。

『キル・ユア・アイドルズ』が描く「ノー・ウェイヴの子供たち」の登場と、現在のアンダーグラウンド・シーンの隆盛は、1990年代の「スカ」の揺り戻しである一方、「時代の要請」から置き去りにされたゆえに、アンダーグラウンドの奥底ではその系譜を純粋で正統な血筋のまま2000年代まで温存し熟成させることができたのではないか。

「ノー・ウェイヴの子供たち」といえば、同じくヤー・ヤー・ヤーズやライアーズと並んで『キル・ユア・アイドルズ』に出演したブラック・ダイスも然り。その中心メンバーであるエリック・コープランドが初のソロ・アルバム『Hermaphrodite』を発表した。

そのサウンドは、まんまブラック・ダイスのエッセンスを凝縮したような、ドラッギーでサイケデリックな代物。ヒプノティックなエレクトロニクスあり、実験的なコラージュあり、初期アニマル・コレクティヴにも通じるシャーマニックな呪術性と、ジャワかインドネシア辺りの歌謡曲ラジオをランダムにチューニングしたようなエスニックな辺境趣味、あるいはシルヴァー・アップルズが手掛けた怪奇映画のサントラを思わす迷宮的で禍々しい音世界が広がる。その感触は、脱退した創設メンバーのヒシャムがソロ・プロジェクト=ソフト・サークルで描くスピリチュアルなサウンドスケープとは対照的だ。エキセントリックでアヴァンギャルドだが、もったいぶったところがない。形態は複雑化を遂げながらも、ファストなハードコアをやっていた初期の頃のアナーキーでガラクタじみたノリが戻ってきたブラック・ダイス本体の近作と、本作の世界は通じている。というか、現在のブラック・ダイスのサウンドを構築しているのは他ならぬエリックであることを物語る作品だろう。秋には本体のアルバムも予定されている。先日のシングル『Roll Up』は、相変わらず電子音とノイズが奇怪にうねるミニマルなトリップ・ミュージックだったが、アルバムはどうなるやら。

そして、そのブラック・ダイスとは盟友関係と言っていいアニマル・コレクティヴ。パンダ・ベアのソロ、エイヴィ・テアと元ムームのクリスティンのユニットと、最近はメンバーの課外活動が目立ったが、バンドとしては05年の傑作『フィールズ』に続く2年ぶりとなるニュー・アルバム『ストロベリー・ジャム』のリリースが控えている。ちなみに、エイヴィはエリックとテレストリアル・トーンズというユニットでも活動する間柄で、ブラック・ダイスのアルバムもアニコレが運営するPaw Tracksからリリースされる。

アルバムを一聴した音の感触は、『サング・トンズ』のシド・バレット/トロピカリズモ的叙情性と、『フィールズ』のペット・サウンド的祝祭性のちょうど中間、といった感じだろうか。前者のフォーキーで南国的な感傷を湛えた“Derek”や“Unsolved Mysteries”。後者のサイケデリックで躍動的なポップに溢れた“Chores”や“Winter Wonder Land”。加えて、“#1”や “Peacebone”、“For Reverend Green”に特徴的なように、随所にテクノ的なエレクトロニクスが大胆に導入されている。

そして、そのすべてを呑み込み、圧倒的な祝祭空間を創り上げる珠玉中の珠玉のトラック“Fireworks”。「一本の木があるとしたら、そこから枝が100本伸びてるっていうのが僕らの音楽だから」と以前話していたのはパンダ・ベアだが、その幹はますますしなやかに太く、枝葉は広範囲に広がり色とりどりの果実を実らせながら進化を遂げていることがサウンドからは窺える。

少なくとももはや彼らのことを「フォーク」の括り云々で語ることは不可能だし、きわめてユニークであるが「フリーク」ではない。「特定の集団だけじゃなくて、大勢の人間に受け入れられ理解される音楽(パンダ・ベア)」と語る彼らの理想にまた一歩近づいた「ポップ・ミュージック」の傑作として、『ストロベリー・ジャム』はアンダーグラウンドのローカルな事象を超えたレヴェルで評価されるべき作品だろう。


NYパンクやノー・ウェイヴ、前衛派による即興シーンやフリー・ジャズなど、偉大な歴史の財産を受け継いだ系譜が息づくニューヨーク。しかし、一方でニューヨークの面白いところは、そうした歴史性を超えたまったくの異文脈からポーンと新たな才能が登場してくるところでもある。ストロークスとか、クラップ・ユア・ハンズ・セイ・ヤーとか。

そして、最近では断トツにコレ、ヴァンパイア・ウィークエンド。

ヴァンパイア・ウィークエンドは、コロンビア大学で知り合った友人同士で結成された4人組。音源的には、自主リリースされたCDRとiTUNESなどでダウンロードできるEPしかない状況ながら、ダーティー・プロジェクターズやヨット、トーキョー・ポリス・クラブとライヴを行うなど、ニューヨークの地元インディ・ロック・ファンを中心に熱い注目を集めるバンドだ。コステロやスクィーズといった1970年代のブリティッシュ・ポップと、サルサやレゲトンなどアフリカン・ミュージックからの影響を公言するサウンドは、シンプルなギター・ロックをベースとしながら、木琴やヴァイオリンが奏でるクラシックの要素と、アフロ・テイストな変拍子のビートが自在に絡み合う、個人的にはストロークスmeetsトーキング・ヘッズといった第一印象の代物。とにかくメロディが最高で、簡素なアンサンブルの絶妙な「抜け」具合はCYHSYのファーストにも感触が似ている。

“Campus”や“Walcott”みたいなオールタイム・ポップなロック・チューンもいいが、スカやコンゴ音楽を解釈した “A-Punk”や“Cape Cod Kwassa kwassa”が素晴らしい。ニューヨークらしいセンスを備えながら、ニューヨークの磁場に引き摺られていない独特な立ち位置は、インターポールとは違った意味で貴重な逸材かもしれない。ラ・ラ・ライオットと並んで07年7月現在最も注目している「脱ニューヨーク」なニューカマー。


「面白い音楽をやるのに、前の世代を理解する必要があるとは思わない。最高の音楽ってさ、まったく何にもないエア・ポケットからポロッと生まれることってよくあるじゃない」。以前そう話してくれたのはサーストン・ムーアだが、誰よりもロックやニューヨークの歴史の重要性を意識しながら、それでもまっさらで未知の音楽を求めてやまない彼の姿勢は、ビー・ユア・オウン・ペットやマジック・マーカーズ、マイケル・ピットのパゴダなど新しい世代のバンドを積極的に世に送り出している最近のエクスタティック・ピースの活動にも窺える。

そして、95年の『サイキック・ハーツ』以来となるサーストンのソロ・アルバム『Trees Outside The Academy』を聴くと、例えば『ラザー・リップト』の際に話していた「不思議な再生」という感覚にも連なるある種の原点回帰のモードが、現在のサーストンを満たしていることが伝わってくる。

ハラランビデスのクリスティーナ・カーター、レスリー・ケファー、あるいはJ・マスキスといった、サーストン自身もここ数年深くコミットしているアヴァン・ロック~フリー・フォーク人脈をゲストに迎えつつ、そのサウンドはソニック・ユースの近作とも通じるクラシックな仕上がりで(最近のソニック・ユースのアルバムはサーストンがアコギで弾いたデモを基点にしているというエピソードも頷ける)、ソニック・ユース本体においてと同様、あえてソングオリエンテッドなロック(フォーク)を創ることの重要性を現在のサーストンが強く自覚していることがわかる。これまで様々なユニットやコラボで見せてきたラディカルでノイズ・アディクトな実験主義者としての顔とは違った、静謐で美しく内省的な詩情を湛えたソングライターとしての顔。やはりこの男こそが、ニューヨークが誇る「大いなる未知」の源泉なのだろうと再確認する。


(2007/09)

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