2011年2月23日水曜日

極私的2000年代考(仮)……アニマル・コレクティヴという奇跡

アニマル・コレクティヴは、ニューヨークのブルックリンに活動の拠点を置く4人組である(※結成はメリーランド州ボルチモア)。スタートは2000年(出会いは10年近く前にさかのぼるようだが)と、まだ活動を始めて間もないバンドだ。しかし、最新作の『Sung Tongs』を含めて、これまですでに4枚のオリジナル・アルバムを発表していて、さらにはライヴ音源をまとめた限定アナログのリリースや、アート・リンゼイのアルバム『Invoke』にメンバーが参加するなど、早くも確固たるキャリアを築きつつある。

2000年のファースト・アルバム『Spirit They're Gone, Spirit They've Vanished』は彼ら自身が主宰するレーベル「Animal」から、昨年のサード・アルバム『Here Comes the Indian』は、キッド606やグレッグ・デイヴィスなどエレクトロニカ系アーティストを擁する「Carpark」内に設立されたバンドが運営する自主レーベル「Paw Tracks」から、そして今回の4作目『Sung Tongs』と、『Spirit They're Gone, Spirit They've Vanished』とセカンド・アルバム『Dance Manatee』をコンパイルした作品は、シガー・ロスやムームで知られる「Fat Cat」から、それぞれリリースされた。ちなみに、「バンド」とはいえその活動の形態は流動的で、『Sung Tongs』ならびに『Spirit They're Gone, Spirit They've Vanished』では、グループの創始メンバーにあたるエイヴィー・テア(デイヴィッド・ポートナー)とパンダ・ベア(ノア・レノックス)の2人によるコラボレーションというかたちをとっている。また、メンバー個々の活動も活発で、最近ではエイヴィー・テアが、先日ニュー・アルバムを発表したデイヴィッド・グラブスとソロ名義でスプリット・シングルを「Fat Cat」からリリースした。

フォークやカントリーなどルーツ音楽、ノイズ/アヴァンギャルド、サイケデリック、フリー・ジャズ、クラウト・ロック、ハードコア、シューゲイザー、エレクトロニカ……といった、まさに古今東西の音楽文体を総動員しながら、しかし彼らが向かう先は、必ずしもそれらの折衷や交配というようなありがちな妥協点ではなく、ディスコグラフィーを通じて同時多発的に別個の物語が展開していくような、分裂的でポリフォニックな音楽の饗宴であり盛り場を呈している。その光景はまさに“動物的”という形容がふさわしい。彼らの音楽はまさにそうとしか表現の仕様のない混濁の極みの世界として存在する。あらゆるマナーからの逸脱、あらゆる形式の破壊が巧妙に企てられ、同時にその手捌きは、音響的なパースペクティヴに見開かれた極めてモダンで洗練されたものでもあるという、まったくもって恐るべきものだ。

アコースティック・ギターとドラムによるシンプルでルーズなアンサンブルと、波紋のように広がる色彩豊かなエレクトロニクスが、シド・バレットにも通じる深遠でミニマルなサイケデリアを作り上げた『Spirit They're Gone, Spirit They've Vanished』。旧友のジオロジストことブライアン・ウェイツを迎えてバンド編成を組み(※もう1人の現メンバー、ディーケンの加入はその後か)、サウンドの有機性と実験性を格段に増した『Dance Manatee』をへて、ボアダムスやクローム、さらにはサン・シティ・ガールズも彷彿とさせる野放図なイマジネーションが炸裂するパノラマ・アヴァン・ポップ『Here Comes the Indian』(※ちなみに同作は『Dance Manatee』を再録したものなのだが、まったく別個の作品に仕上がっているといっていい)。

対して、『Spirit They're Gone, Spirit They've Vanished』と同じく2人編成で臨んだ『Sung Tongs』は、これまでの百科全書的な音の実験を繰り広げる一方、アコギが奏でるフォーキーで異国情緒ただようメロディーと、トライバルなパーカッション、エイヴィーとパンダによる鮮やかなコーラス・ワークが印象的な「現代版ペット・サウンズの変態亜種」とでも呼びたい一大エクスペリメンタル・ポップ作となった。これまでのサン・ラ辺りにもつながるシャーマニックで宇宙的な原始胎動に加えて、ロバート・ワイアットを思わせるカンタベリー風サイケデリア、そしてブラジリアン・ポップやハワイアンの享楽的な音色によって色づけを施されたサウンドは(※アート・リンゼイと仕事をしたことも少なからず影響を与えているのかもしれない)、まるで秘境のゴスペルか伝承音楽と聴き紛うごとき異様な祝祭的ムードに包まれている。それでいて、その総天然色的な煌めきを見せる多幸感に満ちたポップネスは、相変わらず分裂症的な変態を見せる曲展開とは裏腹に、ある種の「普遍」とさえ呼びうる領域にまで到達を遂げている、といっていいかもしれない。

しかし同時に、彼らのサウンドは、まるで未知の生命体のような驚きに溢れていながら、どこか奇妙に“懐かしい”。不思議な郷愁を喚起する、ある種のフォークロア的な響きをたたえている。


果たしてアニマル・コレクティヴとは、あらためて何者/何物なのか。

たとえば、ライアーズやブラック・ダイスと並ぶ今もっとも勢いのあるブルックリンの刺客として、その活動分布図のなかに彼らを位置づけることは可能だろう(※ちなみに彼らがその名を知らしめる契機となったのはブラック・ダイスとのUSツアーだった)。あるいは、ライトニング・ボルトやサイティングス、ヘラやミシガンのウルフ・アイズも含めた「ポスト・ノーウェイヴ」の最右翼として評価することも可能かもしれない。はたまた、レーベルメイトでもあるムームやフォー・テット、さらにはシガー・ロスなどと並べて、エレクトロニカとポスト・ロックの文脈から何かしらの共時性を導き出すことも、きっと無意味ではないはずだ。

ただ、そうした彼らの音楽の表層的な部分について触れた位置付けなり解釈を超えて、個人的に彼らの音楽に感じ入ってしまうのは、そのもっと深いところから伝わってくる情感のようなものであり、それを自分はやはり”懐かしい”という言葉でしか表現しえないでいる。そして、この“懐かしい”という情感を手がかりに、論の飛躍を承知のうえで彼らの音楽を自分なりに定義するとするなら、それは「これは一種の新たなかたちの“民族音楽”のようなものなのではないか?」ということだ。

「民族音楽」と呼ばれるものが、正確に(学問的に)どういったものを指すのか詳しくは知らない。簡単にいえば、ある特定の社会=民族の間で発祥し、結果長い歴史のなかで培われ栄えた固有の音楽形態、といったところだろうか。つまり民族音楽とは、一言でいえば「文化」であり、文化とはそれが潜り抜けてきた時代との交渉のなかに生まれるとするなら、民族音楽が表すものとは特定のフィルター(=民族)を通して得られる世界像/世界観である、と極論することができるだろう。

では仮に、民族音楽というものをあくまで「音楽」としてのみ捉えたうえで、今の時代に新たに成立しうる民族音楽というものを考えたとき、それはいったいどのようかたちを取りうるのか。

音楽表現におけるローカリティは実質的に限りなく崩壊し(あくまで広い意味でのポピュラー・ミュージックの世界の話だが)、また作り手も聴き手も特定の音楽形態にアイデンティファイする以前にあらゆる形態の音楽に晒されているという、「境界」と「中心」を欠いた現状況を前提としたとき、そのようななかで生まれる新たな民族音楽とは、おのずと「すべて」を包括したものとなるはずである。

つまり、(音楽表現のうえで)「民族」なき時代の民族音楽とは、かつてのような固有の世界観が反映された固有の形態を持つ「微分化された表現」ではなく、むしろそうした無数の微分化された音楽形態の集積によって輪郭を与えられるものなのではないだろうか。あらゆる音楽に晒されアイデンティファイできてしまう時代に、あえて「民族音楽」を作り出そうとするなら、それはそのようなかたち――つまりアニマル・コレクティヴのようなやり方でしか成立しえない、と考える。自前の回路に「閉じる」のではなく、逆に限りなく「開かれる」ことで像を結ぶ民族音楽とは、興味深い。

そして、そんな彼らの音楽に奇妙な“懐かしさ”を覚えるのは、そこで繰り広げられているものが、まさにこの時代の聴取体験の縮図としてあるからだ。もはや音楽がフォークロアとして成立しうることが困難な時代に、彼らの音楽の在り方は、その果ての姿のようにも思われる。繰り返しになるが、パンクでもヒップホップでも、ブルースでもダブでも、エレクトロニカでもロックンロールでも、つまり音楽がみずからを自己規定する足場を見失いつつある(いわゆる「ジャンル」と呼ばれるところの純粋性を担保することが実質不可能である)状況下において、アニマル・コレクティヴはそのすべての可能性を呑み込むことで、そうした個々のフォークロアの総和としての新たな「民族音楽」のようなものを擬態し提示するようなのだ。

その意味で彼らの音楽は、音楽における現代の「文明のゆりかご」と呼べるかもしれない。彼らの音楽が伝える光景はまさに「創世記」との形容がふさわしい生命感に満ち溢れたもので、あわよくば個々のジャンル(=フォークロア)さえも一から新たに組み立て直さんばかりの熱気が渦巻いているのだ。


いうなれば「飽食」ならず「飽聴」の時代の申し子、なんて形容さえ浮かぶアニマル・コレクティヴだが、そんな彼らの性格と相似形をなす先達のバンドのひとつとして、稀代の畸形グループ、サン・シティ・ガールズを参考まで挙げておく。

1980年代初頭にアリゾナ州サン・シティで結成され、現在も細々と活動を続けるSCGだが、その活動はとても総括の難しい極めて多岐にわたるものだ。まず音楽作品だけでも優に100タイトル以上を数え、さらにはフィルムからペインティング、執筆活動、パフォーマンス・アートに至るまで、無尽蔵このうえない活動履歴を誇る。
(そして文字通り世界各地の民族音楽を蒐集するレーベル「Sublime Frequencies」の運営しかり)

そして、それに輪をかけて強烈なのが、彼らのサウンドだ。作品ごとに異なる様相を見せることに加えて、その作品内においても、ノイズやらテープ・コラージュやら、フォークやらガレージやら、ジャーマン・ロックやらサイケデリックやら、フリー・ジャズやらハード・ロックやら……と境界例的に変態を重ねるありさまである。その坩堝的な音楽のありようは、アニマル・コレクティヴのそれと極めて近い。まるで巨大な音楽のアーカイヴのように、そこにはさまざまな音楽の「記憶」が眠っているかのようだ。


アニマル・コレクティヴが伝えるのは、その「何者かである」音楽が、「何者かであること」をやめたときに立ち現われる新たな音楽の光景であり、そのひとつの可能性にほかならない。そして、そのすべてがメルトダウンを起こした光景をこそ故郷とする(“懐かしい”という情感を喚起させる)、新たな音楽の歴史の起点である――とここまで書いたらさすがに誇大妄想も甚だしいが、しかし、たとえば一方でポスト・パンクの時代の価値(つまり「閉じる」のではなく「開く」)が見直されていたり、あるいは逆にホワイト・ストライプスのようなミニマリストないし形式主義者の究極(「閉じる」ことで音楽的な可能性を極限まで炙り出そうとする、たとえばラモーンズがそうだったように)のようなバンドが新鮮に受け止められたりしている現状況を考えた場合、そうした見方もまんざらではない気がしないでもない、ような気がする。


(2004/07)


※追記:2007年、メンバーのCharles Gocherの死去に伴い、サン・シティ・ガールズが活動を停止する。

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